栄養学とは?栄養学の歴史

栄養学とは?栄養学の歴史

栄養学とは

栄養素 栄養学とは食品の成分である栄養素が、どのように体の中で利用され影響しているかを研究する学問です。日本では1871年(明治4年)に、ドイツ人医学者のホフマンによって栄養についての知識が伝えられましたが、一つの学問として体系化されたものではありませんでした。1910年代になって、食品に含まれる栄養成分の分析や、「何を、いつ、どのくらい」食べたらいいのかが研究され、はじめて栄養学が誕生し、1980年頃からは食事と病気との関連を研究する疫学研究が盛んになりました。

栄養学の父 ~佐伯矩(さいきただす)~

栄養学の創始者といわれる佐伯矩は、京都帝国大学で医化学を学んでいた頃に、「米と塩を以って生活できるか否かについての研究」など、栄養に目を向けた研究を行い、北里柴三郎の門下として細菌学を研究中の1904年(明治37年)に、大根に含まれる消化酵素(大根ジアスターゼ)を発見し、栄養学創設のきっかけとなりました。この発見で、一般大衆が好んで大根を用いるようになり、夏目漱石の『吾輩は猫である』にもジアスターゼが登場します。栄養学は、1914年(大正3年)に、佐伯によって創設された営養(栄養)研究所において、栄養に関する講義が行われたことがそのはじまりといわれています。
また佐伯は、1918年(大正7年)に、当時、教科書や政府の刊行物では「営養」と表記していたものを「栄養」に統一するように文部省に建言し、「栄養」という言葉の生みの親でもあります。これは栄えるという字には健康を増進する意味があるためで、他にも「完全食」や「偏食」といった言葉も作り出しています。その後1920年(大正9年)に設立された内務省の栄養研究所(現在の国立健康・栄養研究所)の初代所長となり、1924年(大正13年)には私費を投じて栄養学校(現在の佐伯栄養専門学校)を設立しました。翌年入学した第一期生は、1年間の学業を修め、佐伯によってつけられた「栄養士」という呼称で世に出ました。佐伯は海外でも精力的に活動を行い、その功績によって1937年(昭和12年)には、国際連盟主催の国際衛生会議において、参加各国が、国家事業として栄養研究所を設立し、栄養士の育成を行うこと、精白の度合いが中程度の分づき米を用いることの決議がなされました。ビタミンの生体に対する効力を示す国際単位(IU)も、国連への佐伯の提案によるものです。
コーヒーブレイク  
大根
ジアスターゼ・・・デンプンやグリコーゲンの分解を促進して糖にする消化酵素。胃腸薬にも含まれているとおり、消化不良や胃もたれ、胸やけを防止し、食欲不振を改善する働きもあります

栄養士資格のはじまり

栄養学の教育施設は、1924年(大正13年)に設立された佐伯矩による栄養学校のほか、1933年(昭和8年)に、栄養学の母と呼ばれる香川綾による家庭食養研究会が設立され、これが1939年(昭和14年)に女子栄養学園となります。また陸軍の糧友会が食糧学校を設立し、これらの栄養学校、女子栄養学園、食糧学校で栄養学を学んだものに与えられていた「栄養士」という称号が、1947年(昭和22年)に規定された栄養士法により公的なものになりました。1962年には、「管理栄養士」制度が発足しました。

主食論争 ~芽米か七分づき米か~

戦前、国民病ともいわれた脚気の治療、研究を巡って主食論争という大きな論争がありました。ビタミンBを多く含む胚芽を取り去った白米では健康を保てないから、胚芽のついた胚芽米がいい、いや胚芽に加えてある程度のヌカの残った七分づき米がいいという、いわゆる胚芽米論争です。両陣営は感情的なまでの論争を繰り広げ、昭和14年に法定米は七分づき米に決着しましたが、日本の栄養学史に残る大論争となりました。これを主食論争といいます。戦後は玄米を主食とする「食生活指針」が公布されましたが、その後アメリカの食文化の影響で、法定米が七分づき米から白米になりました。戦前まで、主食の米のあり方をめぐって栄養学界を二分するほどの大論争があったというのに、何故あっさりと法定米は白米になったのでしょうか。一つはアメリカの小麦と畜産技術、パンの製造技術の流入により、ビタミンBが畜産物の摂取で補えるということで、洋風の食事と共に白米が日本の食卓に広まったためです。もう一つは戦後の食糧難時代に厚生省は栄養課を新設し、初代課長に胚芽米論者である有本邦太郎、課長補佐に七分づき米論者の大磯敏男を迎えたため、法定米をどちらに決めても戦前の論争がぶり返され収拾がつかなくなるため、それ以外の白米を選んだとも言われています。
コーヒーブレイク
和食
米の精白(ヌカ層を除去すること)
玄米⇒半つき米⇒七分づき米⇒白米
米種子の果皮、種皮、胚芽、糊粉層をまとめてヌカ層といいます。このヌカ層を全部除いたものが白米で、ヌカ層の半分を除けば、半つき米、七割程度除けば七分づき米となります。胚芽米は、ヌカ層のうち胚芽だけを選択的に残して他を除いたもので、特別に精白した「七分づき米」といえます。

戦後 ~欧米化が進んだ食生活~

終戦直後は食料の生産供給の状態が悪く、飢餓や栄養失調も頻繁に起こっていました。救援物資として海外から小麦粉や砂糖、粉ミルクや缶詰めが送られ、1954年(昭和29年)には、アメリカの農産物による食糧援助が始まります。日本食生活協会は、アメリカから資金援助を受け、キッチンカー(栄養指導車)を走らせ、栄養士が欧米風の食事の実演をしました。学校給食はパンと牛乳となり、米を大量に食べる食生活から、小麦を使った食品や畜産食品、おかずの多い欧米の食生活が普及していきます。1975年(昭和50年)には、当時謎の神経炎が発生し、翌年、それがビタミンB1欠乏症である「脚気」であると判ります。砂糖の多い清涼飲料水やインスタントラーメンといった、ビタミンの少ないジャンクフードばかりを食べるような食生活によって、ビタミンが欠乏したことが原因であるとして、再び胚芽米が見直されはじめました。
コーヒーブレイク  
ジャンクフード・・・エネルギー(カロリー)は高いが、他の栄養素であるビタミンやミネラルや食物繊維があまり含まれない食品のこと。ハンバーガーやドーナツ、ポテトチップス、ポップコーンなどのスナック菓子や清涼飲料水などに多く見られます。食感を通じた快楽や満腹感を目的とする食品が多く、少量でもカロリーが高いことから、肥満や糖尿病などの若年化や、生活習慣病の原因になるとされる報告もあります。

免疫学の誕生 ~生活習慣病予防~

1977年にアメリカの上院栄養問題特別委員会が発表したレポート(通称マクガバンレポート)では、高カロリー、高脂肪の肉、乳製品、卵といった動物性食品を減らし、できるだけ精製しない穀物や野菜、果物を多く摂るようにと勧告しています。この中で、最も理想的な食事は元禄時代以前の日本人の食事であることが明記されており、元禄時代以前の食事とは、精白しない殻類を主食とした季節の野菜や海草や小さな魚介類といった内容です。このレポートは、アメリカ国内はもちろん全世界にショックをもって受けとめられました。
和食 これらの食生活にかかわる報告もあって、欧米では「日本食=健康食」といったイメージが広がり、米や野菜を中心とした日本型食生活が注目されるようになり、動物性脂肪や砂糖、塩分の摂りすぎを避けるようになりました。こういった背景から、アメリカではウォルターウィレットらの、食生活改善運動により、がんや心臓病のリスクを減らすといった「栄養免疫学」が急速に発展し、欧米化がすすんだ日本の食生活にも取り入れられるようになりました。
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